君は、選択しながら生きている~受験の前に知っておきたいことPART2~
はじめに
今回は、大学入試問題の背景になっている思想・哲学を「君は選択しながら生きている」をテーマに書きます。
君は将来、世界中「どこでも活躍する人間」として生きていきたいですか。
それとも「自分の趣味・関心事を中心とした人間」として生きたいですか。
グローバリゼーションとAIは、時代の両輪です。選択を意識して乗り切りましょう。
選択しながら生きている
君は「選択」しながら生きていることを強く意識してください。
私たちは選択しながらしか生きることができないのです。
平たく言えば、いまから「勉強しようか、テレビをみようか、それとも運動をしようか」という初源的な選択から出発しているのです。
例えば、高校1年生の君は、「文系に行こうか」・「理系に行こうか」という選択に迫られていますね。どうしますか。
人生の大筋では、文・理の選択は無意味ですが、現在の受験制度では、文系の科目をたくさん取るか、理系の科目を多く取るかの違いですね。
これによって志望する大学の学部・専攻が決まってくるし、大きく言えば「将来の道」が決まってしまうのですから、怖いです。
これは、J・Pサルトルの実存主義に拠るのです。いい方を変えると、いつ、いかなる場面でも、君は「未来に向かって、自分自身を投げ続ける(投企)」のです。
その「選択」した結果は、すべて自分自身に返ってくるというのです。だから迷うのですね。
でも、選択できるという「自由」は素晴らしいです。
悲壮感を持たず、楽観的に考えて、前向きに生きるといいですね。
実際に、私もそのように考えて生きてきました。
自分のライフスタイルを考える
前回は「功利主義」の立場では、モノの豊かさと、カネに満たされた生活が「幸福の目的」であると述べましたね。
資本主義社会ですから「使われるより、使う人」になろうという生き方も選択のひとつです。
しかし、モノ・カネでは満足できない人がいますね。
その最右翼は「宗教的な生き方」をする人になりますが、私を含めて、多くの市井に暮らす人は、日々の暮らしに努力して、それでも人間らしく「あるべき姿」を求めているのが現状ですね。
50年後、いや60年後、君は人生を振り返って「どんな生き方」が良かったと思うでしょうね。
「もともと地上に道はない」(魯迅)ですから、選択の結果がまとまって還ってくる時があるのです。
太った豚より痩せたソクラテス
功利主義者は、ひとつの時代の勝利者です。アダム・スミスの「国富論」にみられるように、国家も個人も「太った豚=モノ・カネが豊かなこと」を理想としていましたから、資本主義社会が形成されたのです。
功利の考え方は、国内から、国外から「特定な国家・階層・人間」に金・品・財・宝という「富」を集められました。それが、極端な「貧富の差」が生みだしましたね。
ひどい「格差社会」の状況を目の当たりにして、ベンサムの弟子であるJ・S・ミル(英)は功利主義の修正を考えました。
彼は「満足した豚であるより、不満足な人間の方が良く、満足した愚者であるよりも、不満足なソクラテスであるほうが良い」といい、労働者の救済を開始しました。
失業・貧困・低賃金・病気・長時間労働は、新しい深刻な社会問題になっていたのです。
J・S・ミルは、快楽を「量的」に増やすことよりも、快楽の「質的差異」を認め、不均衡を是正するように運動したのです。
イギリスは明確な階級社会ですが、社会的な矛盾の拡大を見過ごすことができなかったのです。
彼は、イエス・キリストの「黄金律」を実践するように呼びかけました。
黄金律は「自分を愛するように他人を愛しなさい」という教えです。
貧しい人に愛情を注ぐことがキリストの愛に応えることだと考えたのです。
奉仕活動ですね。これが「ボランティア活動」のスタートとなりました。
人間を手段として扱わず目的として扱え
人間の価値は「人格」であると考えたのは哲学者カントです。
イギリスで進む産業革命を遠目に観て、プロイセン(ドイツ)にいたカントは、人間の生き方・倫理について考えました。
人間は誰も「人格」を持っていると考えました。
人間は、他の動物やモノとは異なる。
人間は「理性」の命令に従って生きることができる。
人間が大切にしなくてはならないことは「人格」であり、感情や衝動に振り回されない「自律」であると考え、市民社会の倫理を構築しました。
彼は、ベンサムと同じ時期「道徳形而上学原論」「実践理性批判」という後世に大きな影響を与えた本を書いています。
君は学校や家庭で、「人格を大切にしなさい」・「感情に溺れてはいけない」・「友人を踏み台にするな」・「理性的に生きなさい」・「自己をコントロールする力をつけなさい」といわれたことがありますね。
カントの「自分の人格を大切にするように、他人の人格も大切にせよ」という言葉の背後にあるものは、新しく生まれた市民社会の生き方・倫理でした。
これは「動機」を大切にする考え方です。功利主義の「結果」に拘ることと全く対立しますね。
この考え方は、国家・社会の在り方にも通じますから、社会は「目的の王国」が理想であるとされました。
彼は30年戦争を通じて「世界平和」について考え、やがて「国際連盟」を提唱することに繋がっていきました。
社会主義は資本主義の矛盾の中で生まれた
「万国の労働よ。団結せよ!」という「共産党宣言」をマルクスとエンゲルスが発表したのは1848年でした。
虐げられて、人間らしい生活を奪われた労働者たちに向かって「団結して戦え!!」と強烈なメッセージを送ったのです。
ロバート・オーエンらの「人道的な労働者救済運動」よりも、はるかに過激な社会主義運動は、やがてレーニンや毛沢東という指導者を得て「社会主義国家」を建設するまでに発展しました。それが旧ソ連邦・現在の中華人民共和国です。
資本主義国家とは全く異なる体制の国家です。マルクスは「経済活動」を重視し、その生産様式を共産化することによって「新しい国家を建設しよう」としたのです。
近年の大学入試で「マルクス主義の思想的内容」を出題する大学はほとんどないと予想しますので、今回は深い解説をしません。
・・・しかし、歴史の展開はわからないものですね。
建国後、ソ連邦は約70年で崩壊してしまいました。なぜ、崩壊したのでしょうか?
私が中・高生のころ、学校で「計画経済」は景気の変動がなく理想だと教えられました。
が、歴史的な経過を見ると「うまく機能しなかった」のですね。崩壊にはいろいろな原因があったと思います。このことは、別の機会に書くつもりです。
私は体制崩壊の実態を知りたくて、「直前」と「直後」に二度にわたって、旧ソ連邦のあちらこちらを歩きました。歴史を「肌で感じたかった」からです。
いろいろとみてきました。一部の人たちを除いて「一般の民衆」は悲惨でした。
学生も勉強どころではありませんでした。ひどかったです。
この旅で特に印象に残ったことは、社会主義国家では商業用の「看板」がないことです。
考えてみると不要なんですね。それで、資本主義経済との根本的な違いを「看板」で感じたのです。
また、ロシア正教会の建築物は、優雅な外観と異なり、内部は煤や埃で「真っ黒け」でした。
社会主義は、宗教を否定していますからね。
私は、この時、見聞したこと、体験したことを、いつか、どこかで話したいと思っています。
神は死んだ。殺したのは誰だ。君だ!私だ!
君は、「神の存在」を信じていますか?「最後の審判」はあると信じていますか?
神の存在を「証明」できるものはありません。
しかし、神を[信仰]する人にとって、「奇跡」があります。
特にヨーロッパの中世の人々にとって、神の存在を抜きにして日常生活は成立することができませんでした。
ところが、ルネサンス以降、このキリスト教の神を信じることができなくなった人が多くなってきました。
その典型は、父親がルター派の牧師でありながら、信仰を失ったニーチェ(独)です。
彼は「神は死んだ」と激しく叫びました。神は私たち人間を救済することができない。
頼りにする神は死んだのだから、助けてくれるものは存在しない。
つまり、どんなに困っても・苦しんでも、キリスト教的な「神の救済」は期待できない。
だから、人間は絶望のどん底から、「新しい権威」「新しい価値」を創造しなくてはならないというのです。
この強い意志を、ニーチェは「権力への意志」というのですが、彼の言葉は強烈です。
頼りとする神を失くした人々は、「生きている意味」が分かりにくくなり、虚無に陥りやすくなるといいます。
刹那的な享楽生活で逃避的な生き方は、自堕落になるだけだと拒否され、非難されます。
彼の思想をニヒリズム(虚無主義)といいますが、ニーチェは、人間は受け身ではなく、能動的で、積極的に、新しい価値を求めて生きるべきであるというのです。
ニーチェが描く新しい権威は「超人」で「ツァラトウストラ」といいました。
<人間は動物と超人の間を綱渡りしていく存在>だから、たとえ「悲劇」に陥ったとしても、超人に向かって強く生きることを主張するのです。
彼は、キリスト教的な隣人愛・同情・憐れみ・やさしさは、人間を堕落させるものであり、人間が本来持っている「気高さ」「高貴さ」「誇り」を汚すものだといいます。
こうした激しいニーチェの思想は、最近も多くの人に支持されていますね。
君は、「神は死んだ」をどのように受け止めますか。神様は「私の悩み」に応えてくれない。どうしたらよいのか。
大学受験でも、目的に向かって、強く、意志的に、激しく努力することが期待されていますね。ここでもニーチェの思想は生きています。
ペンは剣より強いか
「ペンは剣より強し!」といわれますが、物理的な「ペン」が「剣」より強いはずがありません。
ペンが人の心を打ち、多くの人を動かした時、ペンは剣より強くなるのです。
近代市民社会をつくりあげた思想・哲学・イデオロギーは、多くの人の心を動かし、ペンがパワーに転嫁したので、歴史を動かしたのですね。
功利主義が資本主義の理論武装に役立ち、マルクス主義が社会主義のバックアップをし、人格主義が市民社会のあるべき人間像をイメージさせたように、思想は、大きくは政治・経済・社会を動かす武器になり、人間の「心に灯をつける」ものであったのです。
君はこれから、グローバリゼーションの世界で、人工知能に対する「観」をもって逞しく生きていってほしいと願っています。
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