スケッチ:東南アジア諸国の歴史いろいろ(2)~ベトナム戦争・カンボジア・インドネシア・フィリピン~
はじめに
東南アジア諸国のスケッチを続けましょう。
私がここで書くことは、入試に関係する最低の知識に過ぎませんから、君は、それぞれの国の、詳細な歴史や「現状と課題」を調べていくことを勧めます。
これからの「日本の行く道」に関わることが多いですからね。
最初に「ベトナム戦争」から入りましょう。
君の世代には過去になりましたね。だから「ベトナムで戦争があったのです」という表現がいいのかもしれません。(苦笑)
それほど長い間が経過していないハズなのに、「時の流れが早すぎ」ます。
すべてが、歴史上の「戦争」「事件」のひとつになってしまいました。
が、いまや改めて、「ベトナム戦争が入試のテーマになる時」が来ました。
入試と「ベトナム戦争の経過」
ベトナムは、19世紀になって「フランスの植民地」になりました。そこで、社会主義者を中心に、猛烈な抵抗運動がおこりました。その民衆の組織のことを「べトミン」といいます。
この独立運動を支援していたアメリカは、フランスが撃退された状況を見て、今度は、アメリカが本性を発揮して、ベトナムを植民地にしようとしました。
そこで、ホーチミンをリーダーに民衆が結束し、激しい戦闘を開始しました。その結果、「北緯17度」をラインとして「北ベトナム」が独立しました。
「南ベトナム」は、アメリカの傀儡政権が支配するという変則的な歴史が始まったのです。
しかし独立を求める民衆は「北」から武器・兵士・物資を調達し、「南」へ送りました。これが「べトコン」という抵抗組織です。
アメリカはこの輸送ルートを断ち切ろうと「爆撃」を繰り返しました。
コンピューターの計算によれば、この組織は簡単に破壊できるハズだったのです。しかし、ジャングルの中の戦いは泥沼化し、双方にたくさんの犠牲を生みました。悲惨な戦争です。
受験アドバイス
戦争の大義名分を失ったアメリカの国内でも、激しい反戦運動が広がりました。
全国各地で集会が持たれ、「花はどこに行った」「We shall overcome」「悲惨な戦争」などフォークソングが唄われました。強い反戦メッセージでした。
ベトナム戦争を扱った映画は「プラトーン」「ランボー」など沢山あります。
入試では「べトミン」と「べトコン」を混同させる出題や「北爆」「和平会談」に注意してください。下記写真が、出題される確率が高いです。
「戦場カメラマン」が活躍して、現地の映像を通して反戦を訴えました。
アンコールワット遺跡で見たもの
ベトナム戦争は、隣国のカンボジアを巻き込みました。「べトコン」が物資を運ぶルートだったからです。この国はフランスの占領地でシアヌークの王国でしたが、国内は矛盾だらけで混乱していました。
この中で、ポル・ポトが率いる「クメール・ルージュ」が次第に勢力を伸ばし、彼が政権を握ると、歴史上かつて見ない「虐殺」を繰り返しました。
これに大国の利害の対立も加わって、国内は大混乱になりました。
アンコールワット遺跡は、カンボジアのジャングルの中の「基地」になりました。アンコールワット遺跡の周辺にも遺跡が沢山ありますが、熱帯雨林が繁茂するところですから、木々が遺跡を食いつぶすように伸びています。
そして、チョットわき道に入ると「地雷」が埋まっていますから危険です。戦争の足跡が、いまだに完全に消えたとは言い切れないのです。
私の旅行中のことです。
遺跡観光で賑わう隅に「すり減ったレンガ跡」がありました。
「これ何なの?」「はい!ポル・ポトの兵士が、剣を研いだ跡です」「剣を研いでどうしたの?・・・」と聞こうとして・・・私は青ざめました。
何も知らない少年兵たちが「研いだ剣」で、市民たちを殺害したのです。
戦争中、遺跡は兵士たちの「前線基地」だったのです。
今回、遺跡の解説はしませんが、私たちは、東南アジアの国々について、意外に「近くて遠い存在」で、歴史・文化・伝統も知らないことが多いですね。
受験アドバイス
カンボジアの田舎に「学校を建設している友人」がいます。すでに、三校建設しました。学校の校舎だけでなく、教材から教具まで準備します。指導者の育成も大変な仕事ですが、友人はカンボジアの人たちと協力しています。こうした地道な交流が、国際間の信頼・絆になるのです。医療関係で貢献している人、学問研究をしている知人もいます。「ジャイカ」や「青年海外協力隊」の活動のことも知って欲しいです。
インドネシアは、オランダ「東インド会社」の覇権で・・・
この国は、4,000以上の島で成り立ち、その島々に住む人は異なる300以上の部族でできている多民族国家です。たくさんの日本人が住んでいます。
16世紀に香辛料を求めてポルトガル・イギリス・オランダ・フランスが東南アジアに進出し、インドネシアは、17世紀にオランダの「東インド会社」の占領下になりました。
インドでイギリスに敗れたオランダ東インド会社は、現在のジャカルタ(パタビア)に拠点を置いたのです。ちなみに日本の平戸も東インド会社の「支店」でした。東外大の入試で出題されていましたね。
オランダは、320種あった種族語をまとめて「共通語をつくることを禁止」したり、「集会・路上で三人以上の立ち話」まで禁止し、破った人は「反乱罪」で処罰されたりしましたから、この国は過剰にバラバラにされてしました。
東インド会社は「株式会社」といっても、武力と支配権を持って統治していたのです。「覇権」です。ここを誤解しないでください。インドも同じです。
20世紀になり次第に民族が自覚し、独立運動が盛んになりました。酷い弾圧の下で、国民党は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、共産党は反乱を起こし(1927~28)、スカルノたちが民族運動の中心になりました。
第二次世界大戦がはじまり、オランダが撤退し、日本の支配下になりました。
日本は、オランダが長年行ってきた「愚民化政策」をやめ、短時間に、学校を造り、現地の10万人以上のエリートの育成を実施しました。しかし敗戦。
1959年、大統領になったスカルノは憲法を改訂し「パンチャシラ」を推進しました。実質、独裁政権でしたから反発があり、失脚しました。第三夫人がデヴィさんですね。現役のタレントです。
続いて1968年、スハルトが大統領になり、30年に及ぶ長期政権を担いました。実質、これも独裁政権でしたが、開発政策を推進し、インフラの充実・工業化で経済成長を達成することができました。日本とも親しかったです。
受験アドバイス
パンチャシラ(サンスクリット語で「五つの徳の実践」を意味する)は、1945年6月、スカルノが発表したもので、今でも、いろいろな政党が、「党是」としているとこれが多いです。勿論、表現は異なります。ここは入試対策でチェックしましょう。
インドネシアは、いまコロナで大混乱しています。全国民にワクチン接種・二回以上は無理でしょう。困ったことになりました。
政府は国教として「イスラム教」「ヒンドゥー教」「キリスト教」「仏教」「儒教」を認めていますが、圧倒的な信者はイスラム教です。
フィリピンへの期待
コロナが収まったら、友人が「ミンダナオ島に学校を造りたい」といっています。フィリピン人の奥さんの実家が、ここにあるからです。彼女の家に行くには、自動車で島の果てに行き、その先を徒歩で何キロも歩き、小さな部落にたどり着くのだそうです。この移動の間、「日本人だ」と分からないように、「一切、はなしをしないように」と注意されるとのことでした。日本人であることが分かると、いろいろなトラブルが発生するのだそうです。(苦笑)
部落につくと、人柄の良い人ばかりで歓待されたそうです。村の人は裸足で、鶏が放し飼いになっていて、粗末な住宅でも幸せそうだったようです。が、残念なことに、文字を読むことも書くこともできない人が多いので、学校を造ろうというのです。簡単ではなさそうですが、これも「夢」のひとつですね。
フィリピンは、スペインのコンキシタドール(征服者)に支配されました。幾度となく小規模な独立運動が起きましたが、その都度潰されました。「ホセ・リサール」が独立運動で活躍したことが歴史に残っています。やがて、野心を持った覇権国家アメリカは「スペインから植民地獲得」を目的として戦争(米西戦争)を起こしました。その間に革命軍の「アギナルド」が独立を宣言しました。しかし、戦争が終わると無視され、フィリピンは「アメリカの占領下」となりました。1946年になって、ようやく独立しましたが、いまも多くの課題を抱えています。
受験アドバイス
東南アジアの歴史は、ヨーロッパ諸国の帝国主義:植民地からの独立・抵抗運動が中心になります。入試では、基本事項を「過去問」にあわせて学習するのが最適です。
複雑になりますから、歴史に「突っ込み過ぎない」ように注意しましょう。
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