ゼウスはどこに?~なぜ、古代オリンピックが開かれたのか~
はじめに
「わぁ!!!こんなに狭いところで・・・」
古代オリンピアの競技場は、想像以上に狭く、小さかった。
グランドに降りて、トラック競技のスタートラインに立つ。
約2,300年前の“騒めき”が聞こえてきた・・・。大歓声である!!
ポリスの「威信」と「ブライド」をかけて、ここで競う!
「じゃ、次は・・・」「アテネの近代オリンピック競技場にいってみよう!」
そして、アテネの競技場へ・・・意外なほど「狭い」・・・。
東京オリンピックのメーン会場から考えたら、極端に小さい。
ゼウスへの敬虔な「祈り」を捧げる競技場に「華美」はいらない・・・
コロナは、「ゼウスの怒り・カミナリ」じゃないかと思う!!
2022年度入試に、五輪に関連する出題がどこかの大学で出題するでしょう。
東京オリンピックは、時事ネタ・スポーツネタ・学術ネタが満載だからです。
受験アドバイス
紀元前776年の第1回~13回(728)までの、古代オリンピックは、200m弱のコースを走る「競走:1種目」だけだったのです。観客も「女性禁止」でした。
男装した母親が応援に来て、バレて、処罰されたエピソードが残っています。
「市民権」が与えられたのは男子だけです。ポリス代表の「兵士」の競争でした。
第14回からは中距離・長距離・五種競技・レスリング・槍投げなど競技種目も増えていきました。残っている記録によれば、「4年に1回」は変わらなかったようです。
ゼウスのために、一時休戦しよう
ギリシャ神話のゼウスは、ローマ神話になると「ジュピター」に当たります。
ゼウスは、全宇宙や天候を支配する「天空の神」であり、人類と神々の双方の秩序を守ったり、支配したりする神々の王です。「カミナリが武器」です。
絶対的な神ですから、「ゼウスを崇める」ために、ギリシャのポリスは「一時休戦」して、ゼウスを祀る祭典を催したのです。古代オリンピックです。
では、近代オリンピックは、天空に何を掲げているのでしょうか。
「国威掲揚」「企業のCM」では、世界が共有できる「理念」「理想」になりません。実利的なことが優先して「理想の世界」が描けないから「やる・やらない」が議論されるのです。
コロナは「オリンピックの開催目的」を根本から問いかけています。
受験アドバイス
ジュピター(G/Holst・英)という音楽は、天空を指し示す「雄大な世界」を見事にオトで表現していますね。東日本大震災から10年。震災で打ちひしがれていた人々の胸に、平原綾香さんが唄う「ジュピター」は、「励ましの歌」になったと聞きます。
「Every day I Listen to my heart ひとりじゃない・・・」。
吉元由美さんの詩はとても深い内容があり、気持ちが伝わりますね。
これは受験勉強にも通じます。多くの人に「支えられて受験ができる」のです。
その「感謝の心」がある人が強いです。「ひとりではない」のです。感謝です!
現世的で肉体的な「美の祭典」
古代ギリシャは多神教ですから、極めて現実的で、肉体的で、快楽的です。
主神ゼウス(ジュピター)からして、極めて享楽主義です。オリンポス山に住むという12神はヘラ(ジュノー)、アフロディテ(ビーナス)をはじめ、アポロン(アポロ)・アテネ(ミネルヴァ)・ポセイドン(ネプチューン)・ディオニュソス(バッカス)・アルテミス(ダイアナ)も、実に人間的でおおらかで、良いことも、愚かなこともやる神々です。
「肉体を誇らしいものだ」と思っていますから、理想の肉体をつくるために精進します。ギリシャ彫刻は「理想の肉体」の表現ですから、実際より「へその位置」が高いです。究極は「美のイデア」です。
君も、自分に内在する「美」を追求してください。美は生き甲斐に通じます。
受験アドバイス
日本も典型的な多神教です。『古事記』『日本書紀』『風土記』に書かれている「八百万の神」は、とても人間らしい神様たちです。
アマテラス・スサノオ・アメノウズメ・サルタヒコ・コノハナサクヤヒメ・イザナギ・イザナミ・・・など愛しい神々ばかりです。ギリシャ神話に似ています。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は「一神教」で、神中心で、排他的です。
神道・仏教など「多神教」の神々は、おおらかで、人間に近い「喜・怒・哀・楽」を持っています。「共存」を大切にします。他を徹底的に否定することはありません。
肉体美を否定したキリスト教
キリスト教が、ローマ帝国の国教(313年)になると、急激にギリシャ・ローマ神話の世界が否定されます。絶対的な「唯一神」に服従することだけが要求されます。「現世より来世」・「祈りと瞑想」が中心になるからです。
肉体の美しさは拒否され、否定されて、肉体は衣服で隠されました。
そして、16世紀になって、ようやくミケランジェロらの彫刻・絵画によって「肉体の美」が表現されるまで、ギリシャ・ローマ時代の「明るい・現実讃歌」の輝きが、陽の目を見ることはなかったのです。
言い換えれば、キリスト教が普及し「信仰優先」になってから、禁欲が推奨されたのですね。肉体を賛美することは「神への冒涜」になるのです。しかし、中世ヨーロッパの底辺に、ギリシャの美意識は消えなかったのです。
だから、「イタリア・ルネッサンス」で、宗教画に美を描くことが爆発したのです。入試では、この「ギリシャ・ローマの文化」と「キリスト教文化」の異なる「2つの流れ」をしっかり理解してください。
受験アドバイス
フランスのクーベルタン男爵が提唱した「近代オリンピック」は、1896年にアテネで第1回大会が開催されました。この時の理念は「平和な社会の構築に寄与すること、スポーツを人類の発展に役立たせること」でした。スポーツを文化・教育と融合させ、生き方の創造を探求するものにするというものでした。ここで、国際オリンピック委員会(IOC)が創立されました。
ゼウスはどこに?
いまや、天空に君臨するゼウスはいません。
「キリストの神」も、「イスラムの神」も、「中華思想」も、「欧米の合理主義」も、人類共通の「理念」になりえないのです。だから、理念に沿った「平和の祭典」になれないのです。どこかに排他性があるものではダメなのです。
覇権・利権を取り外し、世界中が協力して、初めて理想が実現できるのです。いま、苦しんでいるところは、「この点」なのです。
私が、第47回に書いた「コロナ禍に対するCOVAXファシリティ」の創設と同じです。ゼウスに代わる「コロナが人類を試している」のです。
近代オリンピックは「理念よりも総合的な競技大会」に重点が置かれているのですから、ゼウスのいないオリンピックは、アスリートたちの「国際競技大会」にならざるを得ないのですね。
日本は、1912年ストックホルム大会に初めてマラソンの金森四三・陸上の三島弥彦選手を派遣しました。
受験アドバイス
NHKは金森四三さんをモデルにした「いだてん」という大河ドラマを放映しました。ここに金森さんの情熱・目標が映像化されていました。
君はいま「目の前の入試」に四苦八苦しているようではいけません。しっかり自分を鍛えて飛躍することに集中してください。実際に、東京オリンピックで「世界一」を目指して頑張っている仲間がいるのですからね。
ベルリン大会が大きな分岐点になった
1936年8月に開催されたベルリン大会は、ヒトラー政権の下でナチスの宣伝に利用されました。宣伝の手段として「聖火リレー」が採り入れられ、アテネからベルリンまでの道をナチス党員が伴奏し、やがて「バルカン侵略の道」になりました。「スポーツによる世界平和」というオリンピックの目的とは程遠く、大会は肥大化・商業化が始まりました。大会の記録は、女性監督の“レニ=リーフェンシュタール”が撮りました。ナチスのプロパガンダ映画です。しかし、その後の記録映画のモデルになりました。
この大会で、三段跳びの田島選手、水泳の前畑選手が金メダルを獲得しました。
”前畑がんばれ!”の放送で有名ですね。マラソン金メダルの孫基禎選手は「表彰台」で首を垂れていました。「なぜでしょうか」。君の探究課題のひとつです。
受験アドバイス
肉体を鍛えて「強い兵士をつくる」という目的は、いつの時代・東西に変わりがありません。が、「スポーツ」には、ルールに沿って楽しむ・遊ぶという意味が含まれますが、「体育」には、教育とか訓練という意味が強いです。戦前に「教練」(教えて熟練させる)いう言葉があったように、ヨーロッパに比べて「ストイック」な色彩が強いですね。日本のオリンピックを育てた嘉納治五郎さんが「術」を「道」に高めたのには、日本の伝統的な精神(守・破・離)によるところが大きかったでしょう。
同じ高校生の「サッカー」では“必要ならファウルをしてもいい”というルールですが、「高校野球」では“厳禁”ですね。「君の意見を600~800字」で論述してください。ディベート・総合問題・小論文の素材です。
商業主義を取り入れたロサンゼルス大会
オリンピックの開催には、多額の経費がかかります。
スタジアムの建設や環境整備・運営費などです。開催都市は、多額の経費を負担しなければならないのです。そこで、1932年ロサンゼルスオリンピックから、一気に民間主催になりました。
まず、「テレビ放映料」をアメリカ4大ネットワークのABCと契約しました。「スポンサー協賛金」を取ることにしました。スポンサー企業はロサンゼルス五輪のマークを自由に使えることにしたのです。そして、「入場料収入」と「記念グッズ販売」です。この大会の成功が、その後のオリンピックに大きな影響を残しました。当然、東京オリンピックもこの「延長線上」です。
受験アドバイス
君は、イスラム教徒の女性が「ヒジャブ」をつけて競技することについて、どのように考えますか?スポーツでは、競技に関わるもの以外は、一切身に着けることを禁止しています。イスラム教徒は、最上のものは信仰です。スポーツと信仰の対立です。
イスラム教徒は、ピッチの上でもヒジャブを着用します。そこで「違法だ」という意見と「「違法ではない」という意見が対立しています。君はどのように考えますか?根拠を示しながら80~120字で論述してください。
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